梁瀬次郎

梁瀬次郎と聞いてもピンと来ない方の多いかもしれませんが、あのメルセデス・ベンツの販売代理店YANASEの社長です。メルセデス・ベンツのブランドイメージや日本国内での普及に大きな役割を果たし、日本人としては5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした方です。このような梁瀬氏ですが、幼少期が病弱な上、吃音があり、つらい環境で育ったそうです。

梁瀬次郎さんプロフィール

  • 1916年生:東京都出身
  • 1939年:慶應義塾大学卒業、梁瀬自動車工業に入社
  • 1945年:梁瀬自動車工業社長に就任
  • 1985年:梁瀬自動車工業会長に就任
  • 2004年:米国自動車殿堂入り
  • 2008年:肺炎のため91歳で死去

梁瀬次郎さんと吃音

梁瀬次郎さんは、実はYANASEの創業者ではなく、2代目の社長です。創業者は父の梁瀬長太郎さんで、その後を受け継いだ形になります。この点だけ聞くと、同族企業の2代目社長でサラブレットのように聞こえますが、梁瀬さんがその正反対で、幼い頃から苦労があったようです。
梁瀬さんは、幼少期からとても病弱で吃音があったようです。1年のほとんどを病床ですごした時期もあったようです。ワンマンで典型的な明治生まれの父は、このような梁瀬さんに対し「できそこない」というレッテルを張り、辛く当たってきたそうです。武田信玄の家臣の末裔という家系だったこともあり、父は「お前は武田勝頼以下だ。お前の顔など見たくない」と叱っていたとのことです。
大学卒業と同時に梁瀬自動車工業に入社しますが、このような親子関係であったため、決して幹部候補としての扱いではなかったようです。1945年に社長に就任しますが、父は当初大学の同窓の後輩から社長に充てるつもりでいたそうです。しかし、役員陣らの大反対で、結局は梁瀬さんが社長に就任することになりました。
後に梁瀬さんは「ふりかえってみると、私の半生の大半は、父長太郎に対する反発と抵抗の歴史であったと思う。」と語っています。ワンマンだった父に反対だったため、チームプレーを重視してきたからこそ社長に就任できたのかもしれません。
また、多角化経営していた父に対抗して外国車インポーターに特化する方針に転じたのも梁瀬さんです。この功績が認められ、2004年に日本人としては本田宗一郎氏や豊田英二氏らに続き、5人目となる米国自動車殿堂入りを果たしました。
吃音などから始まった自身の劣等感をバネに頑張ったからこそ、このような大きな実績をあげられたと言えるでしょう。

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